松田サキコ・こころの履歴書Resume of heart of Sakiko Matsuda
・・・まず、軽く家族構成を紹介しましょう・・(^^♪
私の両親は自営業を営んでおり、父は優しく職人肌な気質で母は肝が据わっていてアッパレな性格です。兄妹は、2つ離れた兄と5つ下に妹がおり、兄とはほぼ会話を交わさない、妹とは全く雰囲気が違っていて頭も良く、当時では珍しい中学受験をし早々と家族から離ていきます。祖父と祖母は戦争体験者で、満州から命からがら引き上げてきた生命力を感 じさせる2人です、そんな個性豊かな7人家族の環境で私は育っていきます。
普段の母は、自営を手伝い家事も完璧にこなし「しつけ」にも厳しかったので、いつもイライラしてるイメージでした、だからキレると鬼の様に怖かったです。今では、そんな母を受け入れて楽しんでいるので(最近ではこの町のキム○○ンイルと名付けています(笑)、昔に比べたら随分丸くなりました。私の幼少時はとても大人しく平和主義な性格から、何か家族で口論が起きるとドキドキが止まらず怖くて体が硬直していたのを覚えています、特に夫婦喧嘩を耳にするのが大嫌いでした、5つ離れた妹よりも先に泣くこともありました。
大人しい性格が仇となる幼少期
「地味で暗い子だった」
大人しく気を使ってしまう性格から、独り絵を描いて過ごすことを好んでいました。近所には年上の男の子しかいなく、外で遊ぶ時は兄に連れられ男子の中に混じって遊んでいました、そしていつも自分が女の子である事を気にして、兄に迷惑を掛けないように足手まといにならないようにと、気を使って遊んでいたのを覚えています。
小学校に入ると、この大人しい性格が仇となりわがままな子からの命令を受けやすくなります、そして必然的にその子の顔色を窺うようになり学校が楽しくなくなります。気付けば思考がネガティブになり後悔ばかりしていました「我慢ばっかりしても誰も見てくれていない」と・・私は、どうすればこの思考から打破出来るんだろうか?と一人悶々としたのを覚えています。
中高と自己尊重の低さから「空回りする青春」、 また頻繁化する夫婦喧嘩のストレスで「身体の硬直」
小学校高学年から友達が変わり人生の転機が来ます、ある日の放課後、新しい環境の中「人を笑わせた」という体験が私の中で高揚感となり、安心感にも繋がりました、これを機に自分を守るための対策として明るく振る舞う様になります。
しかし、大人しい気質はそうそう変わらなく積極性や自信は相変わらず持てませんでした、そんな自己尊重が低い私は、いつもどこか損ばかりしていた様に感じます、特に恋愛に関してはいつも空回りしていました。
また、このころ夫婦喧嘩が頻繁にあり精神的に辛かったのを記憶しています、なるだけ罵声が聞こえない様テレビのボリュウームを上げたり、親の機嫌を覗う行 動を取ったり「喧嘩」が怖くて萎縮する気持ちを自分でどうにかしようと試行錯誤していました。
そんなある日、身体が冷え始め手先がしびれ硬直し嘔吐するという体調に異変が起きます、母は驚き急ぎ病院に運んでくれました、診断結果は「ストレス」でした。もちろん親は自覚がなく「あんたがストレスね?何の?」と笑い飛ばしました、 残念に感じ悲しかったのを覚えています、その後、身体が硬直することはなかったのですが、いつも自分の気持ちの「はけ口」を探してました。
養護施設での実習体験、子どものココロの壁「一緒に未来を見つめることから始まる信頼関係」
進路を決める頃、絵を描きたい気持ちから専門学校への進学を希望していたのですが、両親から「自分の好きな事は自分の金でやりなさい」と説得させられ、夢を惜しみながらも短大(幼児教育科)に通う事になります、そこでの必須科目の一つに施設での実習があるのですが、今でも忘れられない記憶として残っています。養護施設に住み込みで入り、子ども達と生活を共にするのですが、ココロにキズを負った子どもとの接し方が分からず悩みました、実習生に対し子ども達は明るく接して来るのですが、「お姉ちゃん達は、すぐに居なくなるんでしょ?」という寂しさの感情も同時に伝わってきます、私は、その空気感が気になってしまい子ども達と馴染めない日々が続きました。そこで、ある施設の先生に相談すると「子どもの過去を気にしても変えられないのよ、大切なのは子どもの未来を一緒に見てあげることよ」と言われハッとさせられます。子どもの過去を一緒に背負うことが大切だと思い込んでしまっていた私、結局は自分自身が気持ちを留めてしまい心を開いていなかったのです。
子どもは育つ環境は選べない、そして起きた事実よりも未来を一緒に見ることが大切であり、それは血の繋がり関係なく「子どもを見守る」大人の責任として誰しもが出来ると言うこと。 無事に卒業はしましたが、保育士になりたいと思いませんでした、なぜなら私は少子化時代が来る事を悟り、それに伴う親の子どもに対する執着を恐れてしまったからです(今では、モンスターペアレンツと言う言葉で表現されています)
会社を3年で退社夢と現実「孤独からの喪失感と摂食障害」
卒業後、無事に就職をしますが「絵を描きたい・絵の勉強をしたい」という気持ちが忘れられず3年で退職してしまいます。当時、独り暮らしをしており、そんな中で美術の学校に通うという事は経済的に厳しくなるのは目に見えてわかるわけですが、若さという勢いと自分の意志での決断が誇らしくもあり、最初は希望と自由に満ち溢れていました。そして2ヶ月過ぎた辺りから、理想と現実の狭間で苦しみ始めます、税金とか年金とか想像以上にお金が飛んでいく仕組みを知り、この国は息を吸うだけで「お金が掛かる」ということと「人間は最終的にひとりなんだ」と言うことを学ぶのでした。
しばらくの間、短時間のバイトと美術学校の一般コースに通う生活をするのですが、絵を学んだ後の先が見えて来ず、だんだん足が遠のいて行きます、そして、夢が見えなくなった私は喪失感と現実のストレスに襲われてました。昼と夜が真逆になり、また、どんなに食べても満腹感がなく必要以上に食事を取り、そして暴飲暴食の罪悪感を解消しようと指を突っ込み吐き始めます。親に甘えられない性格と、自己責任感から孤独感は増すばかりでした「このままでは、病んでしまう」と察した私は、急ぎ就職活動を始めます。「自分で自分を救う手立てを見つける」これが23歳で学んだ「人生の勉強」です。
大事故を起こす「車ごと飛ばされ救急車に・・」更に続く悲劇「セクハラ」
新しい就職先は、本社が大阪にある熊本営業所で少人数体制でした。 私は経理事務として雇用されたのですが、入社したときから引継ぎがいない状況で、初めての事務職を手探りでやることになり土日も仕事を持って帰っていました。やっと仕事にも慣れ余裕が出来たころ、私は何時ものようにみんなの昼食を買う為、車で買い出しに・・そして、その帰り道、私は大事故に合ってしまうのです。。
交差点の真ん中で衝突、私は車ごと反対車線の歩道に飛ばされます、衝突の衝撃で脳震盪を起こし気絶状態、気づいた時にはオレンジの服をきたレスキュウー隊に囲まれ「大丈夫ですか?!名前は言えますか?!」などの意識確認が始まっていました、松田家では一瞬「サキコは死んだ説」があったとかなかったとか・・・(汗)。車は無残にも「く」の字に凹み廃車になってしまいましたが、私は額を少し切っただけで軽傷で済みました、しかも事故の瞬間を覚えていなので恐怖感もなく次の日から普通に生活が出来ました、そんなある意味強運ともいえる体験をしたのですが、この後、思っても見ない事件が更に起きるのです。
それは、信用していた所長からのセクハラでした、抱き着かれ危険な目に合う寸前で恐怖でした。その日から、私は出勤が億劫になります、所長は隙をみては「食事に行かないか」と誘ってきます、恐怖で冷や汗が流れ、血の気が引きます、断る口実をいつも用意し逃げ耐える日々。私は、メディアで観る「セクハラ事件」を軽率に甘くみていました・・実際に合ってみて悲しいほどわかりました、上司とか会社とか雇われの身とかの、恐怖以外に縛り付けられる立場の弱さが、こんなにも苦しいものだという事を。その後、上司である男性社員に勇気を出し相談をするのですが、彼にも立場があり何も出来ずでした、でも話せた事は良かったと思っています。結果、私はこの会社を退社することにしたのですが、全てを親に話した時、母親は一緒に涙を流してくれ、父は早く言って欲しかったと悔やんでくれました、悲しい出来事でしたが「親の愛情」をこれ以上に感じたことはありませでした。
心配性、自己犠牲、責任感、どこか不安な三十路だった「メンタルの弱さから円形脱毛に」
20代後半から30代前半、新たな職場での人間関係もおちつき、プライベートにワクワクやドキドキを求めますが何故か恋愛だけは長続きしない傾向にありました。今思えば、根底にある自信のなさが空回りをしたりプライドが邪魔して素直になれてなかったり、結果どの恋愛も大切に出来ず成長もせず終わっていました。30歳になった頃、「理想」と言える人に出逢います、その彼は自分に無いものを兼ね添えていました、ルックス、自信、語学、生い立ちなど、その魅力は普通ではなくどこか危険な感じもしたのですが、それを含め私にはカッコよく映ったのです。しかし付き合って3か月を過ぎたころ、彼はある事件に巻き込まれ警察に連れていかれます・・衝撃でした。しかし、それでも彼を信じ待ちました、この時の不安感がストレストとなり円形脱毛になってしまいす。
数ヶ月が経ち、彼の疑いは晴れ自由を取り戻したのですが過ぎた時間は大きく仕事も生活も一変していました、私は離れる勇気がなく「それでも側に居たい、支えたい」と思ってしまいます。そして、出会った時とは環境が変わった彼と、複雑で微妙な関係を続けていくのですが、今思えば決して気持ちは満たされてはいませんでした。「憧れ」から入った恋愛は、時折、自分らしさまでも押し殺して相手に合わせてしまいます、また、自分に自信がないと「嫌われたくない」ということを必要以上に気にしてしまい「幸せ」の方向性が見失われていくのです。(自己肯定感の低さは人に依存しやすく執着しやすい)ただ、それだけ人を好きになれた事は誇りだと思っています、少なくとも「誰よりも最高に幸せだ」と思う瞬間はありましたから・・※過去を否定せず学びだと思い、これからの自分のために整理しました。
父親の突然の事故死。 「受け入れられない日々、積み上げてきた家族の形が崩れる」
その日私は、会社でイベントという多忙な一日を迎えていました、そんな中で一本の電話が鳴ります、兄からでした。珍しくもあったのでちょっと不思議に感じましたが、仕事が落ち着いてかけ直す気持ちでいました、しかし、立て続けに兄嫁から電話が鳴ります、さすがに「え?何!!」と思い仕事場をコッソリと抜け電話に出ます、すると「お義父さんが、お店の階段から転倒して・・今、片目の瞳孔が開いている、危険なん状態で・・」兄嫁は看護師であったので 直ぐに現実感が沸き、一瞬呼吸が凍り付きました。職場を飛び出し急ぎタクシーへ、気持ちが真っ白で長く感じたのを覚えています。父は集中治療室に居ました、頭蓋骨を一部切除され目を閉じた状態で声をかけても反応はありません、心電図の画面と呼吸器の音でしか父を感じることが出来ませんでした。父の手を久しぶりに触りました、相変わらず分厚くて指は短く、仕事柄爪に油が染みていました、ただ、私の記憶より少し老いていました、家族みんなでその手を何度も何度も温め、いつか握り返してくれると信じ待ちました。・・1日半経ち、父はこの世を去っていきました。この突然の出来事は、家族に大きな悲しみと辛さと、虚しさと、やりどころのない怒りと苦しみを与え続けました、泣いても泣いても、泣いても泣いもお父さんはもう居ないという現実は酷でした。母は人が変わった様に弱りただ受け入るしかなかった、そして、母の前で泣けなかった分を、独りアパートで大声を出して泣いていました。
時間は私達家族の気持ちを置いて過ぎて行きます。正直、何日も何年も家から出たくなかったです、家族以外の人に会いたくなかったです・・でも、結果、「仕事に行かないといけない」という無条件の責任感が私のココロを救っくってくれました。働く時間が気を紛らわしてくれる薬となったのです、こうして少しづつ悲しみのポケットから抜け出せました。
※病院で父が亡くなり家に連れて帰った夜、私は不思議な体験をします・・感じたままを言葉で伝えるなら「この世を去る時、呼吸は止まりゆっくり身体は冷え青白くなっていきます、それが終わると身体から魂が離れるとのだと思いますが、その魂は肉体との離脱に気づいていないかの様に、いつもの様に「存在」として居るのです・・・ほんの少しの間だけ」
熊本震災の体験、そして私の心を動かす出会い「精神疾患とは?!想像以上に深刻な時代!?」
2016年4月、熊本大震災が起きます。突然の震度7弱の大きな揺れは恐怖でしかありませんでした、終わらない余震、灰色化した街並み、精神的にも肉体的にも疲れ不安で一杯でした、そんな中、声を掛け合い助け合う「人の繋がり」は大きな支えでした。私たちは慣れない環境にストレスを感じながら、どうにかして日常を取り戻したく必死でした、やがて、少しづつ復興と共に活気を取り戻し始めたころ、臨床心理の先生の呼びかけのもと「震災後の心のケア」と題してワークショップを開催、手伝わせていただきました、そこで、まだ成長過程にある子ども達にとってこの恐怖体験は、積み上げてきたココロのバランスまでも壊してしまう精神的な影響を与えるんだという事を知りました。
震災から一年経った頃、ある十代の若者と知り合います。その子は心を病んでおり精神的な状態は不安定でかなり重かったです、私はこの子と関わって行くことで想像以上の出来事と経験をしていきます、また、「子の辛さは親の辛さ」でもあり、複雑で重い悩みを見せられました。あらから3年が経ちました、本人の努力と周りのサポートがあり、ゆっくりではありますが前に進んでいます、今思えばこの出会いが大きかったからこそ学び、「ファーストケア」という仕事を見つけ出したのだと確信しています。また、今の社会問題を肌で感じさせられました、日本を背負う幾つもの若いカがココロを病んでしまっている現状があるということ、そして、年齢を問わず社会全体で精神疾患の患者は増えているという事実。
2019年、自分の職場でも精神的なストレスで仕事を続けることが出来なくなった若者が出てしまいます、私は 20歳の若い力を守れなったことを悔みました、ショックでした。彼女は退職していきましたが、私はこれまでに学んできた心理学が何かココロのケアに繋がらないかと思い、時折コンタクトを取って来ました、今では本人の努力の積み重ねのもと、新しい仕事にも就き頑張っているそうです。心のモヤモヤを一人で抱え込まず早期に話すだけでも「心のケア」に繋がるんだという事を、これからの仕事を通して伝えて行きたいです。
スピード引っ越し、断捨離と男捨離、激やせ、占い、「生まれて初めて心から死にたいと思う」
付き合ってやがて10年になろうとする彼氏がいました、喧嘩や浮気が原因で別れたこともありましたが、いつしか「お互い自由をベース」に干渉もあまりしない雰囲気で収まっていました、お互い若さもなくなって来てたので、それが都合良い関係でした。ある日、彼の携帯にメールが入ります、メールの内容が一部画面に表示され思わず目が行きます・・・そこにはショックな一文が入っていました、私の頭に稲妻が落ちたように直感と衝撃が走り心臓がバクバクと鳴り血の気が引き初めました
私は、直ぐに彼に問いただします「結婚したの?!」と、彼は一瞬無言になり、そして的を得ない話でその場を流そうとします、更に問いただすのですが今度は機嫌を悪くし逆切れ状態・・私はその情景から、こいつは「黒」だと悟りました。その日からショックのあまり何も手につかず、生きた心地がしませんでした、特に「黒」だと分かっていても確信がない状況が酷でした、なぜなら「もしかしたら違うかもしれない」と、どこか思ってしまうのです。そこで私はお相手(仮、Tさん)に話を聞きに行くという手段をとります、まずお相手の彼女に電話を入れ冷静に事の流れを伝えます、最初は大人しく聞いていたのですが本題を問いただすと「彼に聞いて下さい」の一点張り、電話は切られメールも無視され続け、結果欲しかった確信は得れず終わってしまいました。こうして「口を割らない男と、話をしない女」の奇妙さは私を更に苦しめていきます。
毎日、気分は吐きそうでした、食事も喉を通らず体重は減り、苦しさのあまり占いに頼りココロはボロボロでした・・そんなある日ふと思ったんです、この気持ちから解放されるには「死ねばいいんだ」と、一瞬の感情的な気持ちでしたが、私は自分で自分が怖くなりました。そこで、まずは環境を変えることが大事だと悟り引っ越しを決めます!そこから毎日仕事勝手間に部屋にある彼の荷物を捨て、寝る間も惜しんで断捨離と準備、一か月あまりで引っ越しを成し遂げたのです。しかし彼は、そんな姿を知っているにも関わらず引っ越し後もしつこく連絡を取ってきたます、私は激怒し思わず罵声を吐くのですが響かず・・開き直ったのか「だから何?」と他人事のような様です、アメリカ育ちは皆こうなるのか?と呆れる程でした、そして、しばらくして彼は小さな声でやっと口を割ります「結婚は自分から言ってない、サキコとは今までと変わらずやって行くつもりだった」と・・男として最低でした、そしてそんな都合に合わせて黙る女も大して幸せじゃない・・。こうして私の心の戦争は現実的には終わりを迎えたのですが、強烈で衝撃的なストレスはそうそう簡単には解消されず、彼女と同じ名前や出身地を目にするだけで気持ちにモヤモヤが蘇り、時が過ぎてもその感情はなかなか拭われず本当に辛かったです。そんな時、NLPタッピングセラピーに出会いケアを受けました。
17年務めた会社を43歳で退社、「人生一度きり、自分らしさで行く!」
私は若い時から、気持ちのどこかで「何かしたい」と問いながら生きていました。人から誘われるものは基本参加し、楽しそうな情報を得れば誰かを誘って行き、時間があれば昼夜働いたり、あるいはワークショップのスタッフとして活動したり、HPを作ってアクセサリーを販売してみたりと、それは本当に様々でした「何かしたい」が何なのかを常に探していました。
そして、紆余曲折しながらやっと出会いました「ココロの病の予防」という仕事に。 「この歳で仕事を辞めるなんて!!」て思う人は多いです、でも私は「まだ43歳」と思っているんです、何かを始めるのに早いも遅いもなく、ここに辿り着くには、全て必要だった時間と経験だと悟っています。年齢を重ねていくとどうしても変化を嫌い安心を求めがちですが、たった一度きりの人生であり自分の人生です、もう一度だけ、希望と好奇心を求めてもいいんじゃないかなと自分自身が言ってくるのです、そんな自分に正直になってみただけです、だから未来に後悔してる姿だけは見えません。
最後に・・・
「ココロの履歴書」を最後まで読んでいただきありがとうございました。・・私なりに書く事に抵抗があり涙がこぼれ進まなかったものあります、でも、ここで伝えたかったことは決して「自分の悲劇」ではありません、成長と共に課せられたれた悩みや課題は「自分という者が何者なのか?」とう問いであったと思っています。何か起こる度、自分の気質や性格と向き合わなくてはなりません、そして勇気をもって周りに発信しヒントをもらい、何かしらの「気づき」を取り入れる事は大切です、内側と外側からの情報を得ながら「今の自分らしさ」を築き未来に繋げていくのです。私は、頭でわかっていても心が追いつかず遠回りをすることが多いですが、それらを含め必要だったと感じています、これかれも、全ては自分を知り学ぶ為の「心の学歴」だと解いて、前へ進んでいくことを心がけています。