「生と死を考える時間」ファーストケア

こんにちは、ファーストケアの松田です

先日、友達とメールのやり取りで「生と死」を考えさせらる内容があり

今日はそれを少し書きたいと思います

 

友達からのメールは

「私の知り合いの旦那さんが、闘病生活の末35歳という年齢で亡くなられた」という内容でした

旦那さんの病状を何も知らされていなかったので、突然の訃報となり驚きと悲しみが綴られていました

 

闘病生活は8年だったそうです、それを知る人は限られていました

 

旦那さん本人は何を思い感じ、自分の死と向き合ってきたのだろうか?

その奥様は何を思い8年間を過ごしてきたのだろうか?・・

当人にしかわからない気持ちの内側が、今わたしの思考と心に突き刺さる

ふと、自分の父を看取ったときが思い返される

 

不慮の事故で突然この世を去った父・・その傍で私たち家族は短くて長い時を祈り続けた

祈る以外無力だった私たち・・

 

迫ってくる命の終わりを受け入れられない状況であっても、受け入れなくてはならない瞬間がくる、私の経験にはその場は「恐ろしいもの、怖いもの」として記憶されている

全身の身体が震え続けていたのを覚えている父を失うことが、とても怖かったのだ

 

 

今回のこのメールからは、旦那さんと奥さんは結婚してまだそうは経っていないと想像できる

奥さんはどんな思いで傍にいたのだろうか?

そばに居る者として、闘病生活の中で逃げられない「覚悟」をし、涙を隠し看病に当たっていたのだろうか、、

メールによると、終焉の地を自宅に選べるようにと掛け合ったり、4歳の子どもはパパに手紙が書けるようにとひらがな練習を励んたそう

 

旦那さんは自分の命と家族と、本当に色んなことを想いどんな日々を過ごしていたのだろうか、、

私には想像も推測もできない、そんな「わからない苦しさ」でため息がこぼれてくる

 

 

今、世の中はコロナ渦である

色んな「命」に関わるニュースが毎日流れている

 

世の中には常に「死にたい」と思う人と「生きたい」と思う人がいて

その思考が交差している

 

でも、今は「死にたい」という人の方の比重といか思いと言うか・・強く感じる

あんまり強いと、思いだけに留まらず死を欲するようになるかもしれない

最近ではSNSが普及して、いろんな欲求(物力、情報など)が簡単に満たされるようになっている

「死」もその一つになるのかもしれない、いやもうなっている

最近のニュース「座間事件」はそれを示したと思う

 

「死」への思いが現実化していくような世の中にならないで欲しい

その過程にある「悪い情報」という罠に入らないで欲しい

 

 

自分の意図しないところで命の終わりが迫っている人は、

きっと最初から「生きたい」という現実しか見えてこないのだろう

だから、一生懸命に1日、1時間、1分を生きれるのだろう・・

「瞬間」と言う「時間」をも大切に生きれるのだろう・・

 

 

 

私たちは、「当たり前に明日がくる」と無意識に思っている

でも、確率は常に50%50%なのだ (これを目の前で教えてくれたのは父だ)

 

明日、事故に合うかもしれない

明日、病院にかかり余命を宣告されるかもしれない

明日、目が覚めないかもしれない

 

明日も生きてるって思ってるから、死にたいって思うのかもしれない

 

 

色んな角度から「生と死について」考えてみる

 

今回のメールは、私にそんな時間をくれた「大切な時間」だった

 

 

さて、明日が来るのか来ないのかわからないのなら

私は今何をする?・・・”(-“”-)”